Eye sight.
写真。網膜に映るそれと同じような仕組みでフィルムや記録媒体に被写体を映し出すもの。
最近どうも写真が好きだ。一年前くらいから外に出てなんとなく撮った写真を載せ続けるアカウントをInstagramで扱っている。これを見た人は必ずnagaoka_the_japaneseで検索してください。24時間以内に検索しないとどこかでばったり会った時、靴を踏みにじります。
写真を載せているアカウントだから当然おすすめにでてくるのも写真家さんの写真の投稿であるのだけれど、なんとなく載せてなんとなく見ているものに共通点を見つけた。
それはぼやっと眺めていられるものだ。ありふれたもの、とらえきれないものと言ったほうがいいかもしれない。寂れたクラシックカー、波打ち際、集合住宅、野良猫、落とし物、スケボーを抱えた人、煙草を吸う人、美味しそうに何かを飲む人、ありふれた海外の一軒家、横断歩道と信号、日が刺した摩天楼。
写真や動画より実際に目で見たいという意識があるせいなのか、本当に感動したものや形式をなしたアートなんかは写真を撮ろうという発想に至らない。なんとなく目を引くものを誰かに見せるために、自分で見返すために撮っている。形にならない感情を、落ち着くその一瞬を閉じ込めるために写真を撮っている。
写しだした何かよりその奥にあるエゴを写真にみているのかもしれない。煌びやかな集まりや、綺麗な食事を撮らないように、写真のその先、ファインダーのその先、被写体のその先を見ているのだろう。俺にとって写真とは主張であり問いなのだ。寂れたクラシックカーも、波打ち際も、集合住宅も、野良猫も、落とし物も、スケボーを抱えた人も、煙草を吸う人も、美味しそうに何かを飲む人も、ありふれた海外の一軒家も、横断歩道と信号も、日が刺した摩天楼も。外から見た外の世界だ。
みんなは俺に何を見せてくれる?俺はみんなに何を見せられる?
山を登り景色が変わっていくように、同じ波がもう来ないように、毎日形の違う月を見上げるように、俺は緩やかに写真に魅せられている。
あなたと写真、どんな物語がありますか。
スバルのアイサイトやないか。
修学旅行で撮った写ルンですの一枚みてぇに僕のことは忘れてください。


