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Brain cell.
僕は映画が好きだ。映画に限らず創作物全般、ひいては人の話さえ好きだ。
根底にあるのは高校1年の進路相談だ。入学して初めての面談だったからか進路の話もそこそこに他愛もない話を担任とした。BUMP OF CHICKENで好きな曲はなんだとか、そんな話から考え方の話に移った。
「僕の顔って僕は反射以外でみれないじゃないですか。」
不意に放った一言だった。
「他の人から自分の顔ってどう見えてるかもわからないし、鏡に映った顔が本当の顔かもわからないよね。もしかしたら福山雅治からみた俺はイケメンかもしれないよね。」
結構盛り上がった記憶があるこの会話は何年もたった今もなお、脳に焼き付いている。
何が言いたいかと言うと、他人の頭は覗けないってことだ。
毎朝鏡で見る顔でさえ自分の目で直接見ることはできない。正しい顔という概念が正しいかはわからないけど、肉眼で見ることはできない。自分自身の存在は他者からしか観測することができないので、自分と言うのはひどく曖昧な存在なんじゃないか。そんな薄ら哲学の話。僕はどんな顔をしてる?そう尋ねても相手の頭を覗くしか相手からみた自分の顔を知る方法はない。どれだけ言葉を知っていても目の見えない人に目の前の色を見せてあげることができないように。
頭を覗ければ苦労はしないのだが、実際そんなことはできない。この進路相談から僕の精神にこびりついてしまったこれは後に映画を観ることで解決することになる。
創作物は言ってしまえば全て想像の産物だ、ドキュメンタリーさえ構成を考えて作品にした時点で誰かが考えたことが形をなしたものだと思う。創作物とは誰かの頭を飛び出した頭の中だ。
これに気が付いてから映画を観るのが好きになった。全体の構成は監督の頭の中で、物語は脚本家の頭の中、カメラワークはカメラマンの頭の中だし、照明も、編集も、音楽も全てが人の頭の中、映画は人の頭の中の集合体だ。
多額の金と計り知れない時間をかけて、人の頭の一部を見ることができる。また出来上がったものを見て、作った人でさえ初めて自分の頭の中を見ることができる。
今こうして書いている文章全てが完成していたわけではない。画面に表示されて改めて自分が何を考えているのか理解した。もしかしたら人の顔なんて初めから意味がないのかもしれない。その人だって鏡を片手に人と喋っているわけではないのだから。
形を成して初めて誰かの思考と並べる気がする。僕の可能性の域を出た誰かの可能性。もっともわかりやすい頭の中。薄ら哲学の到達点。
だから僕は映画が好きだ。
p.s.こういう自分で見てる世界、主観的に捉える感覚的なもののことをクオリアっていうらしい。専門誌読んだわけじゃないからぺらぺら喋れないんで調べてみてね。
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